いもみの日記

御朱印集めが趣味のOL(お芋好き女子)です。いろんな神社やグルメを紹介します!

『古事記』本文上巻㊾~黄泉津大神~

こんばんは、いもみ🍠です。
本日は、『古事記』本文上巻㊾~黄泉津大神~のご紹介です。

こんばんは、アキです。
主に翻訳と解説を担当しています。

【前回のあらすじ】
千引石を挟んでイザナギは、イザナミに別れを告げました。
別れを告げられたイザナミは「愛おしい貴方がこの様な仕打ちをするのならば、私は貴方の国の人民を1日に1000人を絞め殺しましょう」と仰せになられました。
これに対しイザナギは「愛おしい我が妻よ、貴女がそうするのであれば、私は一日に1500の産屋を建てる事にしましょう」とお答えになりました。
こういう出来事があったので、人は一日に必ず千人が死んで、一日に必ず千五百人が生まれるようになったのです。

日本で初めての離婚...。
人は何故毎日生まれ、何故毎日死んでいくのか...そういう理を説明している文だと思いました。
物語から人の生死の起源を説く、という作業はなかなか難しい気がします。
古事記にはこうした【私達の世界は何故こういうことになっているのか?】みたいなことを物語で説明している箇所が幾つもあります。
こういう点にも注目して読み進めていくと、また面白いと思います。


『古事記』本文上巻㊾~黄泉津大神~

【原文と読み方】
【原文】
故號 其伊邪那美神命 謂 黃泉津大神 
亦云 以其追斯伎斯(此三字以音)而 號 道敷大神

【読み方】
故(かれ)其(そ)の伊耶那美命(いざなみのみこと)の號(よびな=号)を黄泉津大神(よもつおおかみ)と謂(い)ふ
亦(また)其(そ)の追(お)い斯伎斯(しきし)を以(も)って、號(よびな=号)を道敷大神(ちしきのおおかみ)とも云(い)う
【斯伎斯】の此(こ)の三字は音を以(もち)いる

【訳】
こうして一日に千人を黄泉の国に引きずり込むイザナミは、黄泉津大神(よもつおおかみ)と名を改めました。
またイザナミは逃げるイザナギを追いかけ、黄泉比良坂で追いついた事から(「追いついた神」を意味する)道敷大神(ちしきのおおかみ)とも申されるのです。
(註:【斯伎斯】の此の三字は音読みを用いて【しきし】と読んで下さい)

【解説】
故號 其伊邪那美神命 謂 黃泉津大神
「故」は「かれ」と読みます。
「先にあった事の結果として、後の事が起こった」ことを表わす言葉です。
訳すと「こういうわけで」でしょうか。
つまりこの「故」は「ことど(離婚)によってイザナミは一日千人を絞め殺し、黄泉の国に引きずり込む、と言ったことの結果として」ということを表わしています。

「號」=「号」で「よびな」と読みます。
意味も同じで「呼び名、名前」です。

なのでここは「こうして一日に千人を黄泉の国に引きずり込むイザナミは、黄泉津大神(よもつおおかみ)と名を改めました」と訳しました。


亦云 以其追斯伎斯(此三字以音)而 號 道敷大神
ここで難しいのは以其追斯伎斯(此三字以音)而の部分だと思います。
まず太安万侶の注釈(此三字以音)に従うと「此の3字は音を以(もち)いる」➩「【斯伎斯】の3字は音読みを用いる」と書かれていますので、
【斯伎斯】は【しきし】と読みます。

が、「其の追い【斯伎斯(=しきし)】を以(も)って」と読めても、わかりずらいです。
この「追いしきし」とは、「追い敷きし」なんでしょうね。
調べたら「敷」には「隅々まで及んでいる様」という意味がありました。
この事から念のため「及」も調べてみたら「及」にも「しき」という読み方があることが分かりました。
なので「追いしきし」=「追い及し」なのかもしれません。

いずれにせよ意味は「追いつく」でしょう。
ですから以其追斯伎斯(此三字以音)而は、「イザナミは逃げるイザナギを追いかけ、黄泉比良坂で追いついた事から」という感じに訳してみました。

黄泉津大神・道敷大神について

名前が二つあるんだね。

そうね。
黄泉津大神(よもつおおかみ)は「黄泉国の主宰神」の意味ね。
「ことど」によってイザナミがイザナギに「貴方の国の人民を一日千人、黄泉の国に引きずり込む」と言っているから、この時点でイザナミは「黄泉国の主宰神」になった...ということでしょうね。

道敷大神(ちしきのおおかみ)は?

道敷大神(ちしきのおおかみ)は「イザナギに追いついた神」の意味なんだって。

イマイチ良く分かんないね??

私的にはキーワードは「道」だと思うのよね。
中津葦原から黄泉の国に続く道...この道を行ききると死んでしまう。途中捕まっても死んでしまう。この道を治めるのが道敷大神、つまりイザナミ、って感じかな。

そう言えば上の解説でも、道敷の「敷」は「隅々まで及んでいる様」という意味があるって言ってたもんね。
道敷大神は「黄泉の国の道の隅々まで統治が及んでいる神様」って意味かもしれないね。

そうそう。だから古事記の道敷大神は正確には「統治する黄泉の国の道で、イザナギに追いつけた神様」って意味じゃないかなと思ってるの。
ちなみに日本書記にも道敷大神が登場するんだけど、古事記とはちょっと話が違っていて【黄泉の国から逃れたイザナギが体の穢れを落とす時に、身に着けた靴を脱いで生まれた神が道敷大神】となっているわ。

ふーん。じゃあ道敷大神は靴の神かもしれないね。

古代の日本では【穢れ】を恐れていたそうよ。
これは穢れが溜まると死に繋がるかららしいわ。
黄泉の国の道は死に至る道だから、その道を歩いて付いた着衣を脱ぎ捨てて、身を清めたいって思うのかもしれないわね。

解釈色々あるんだね。
私は「黄泉の国の道の隅々まで統治が及んでいる神様」って覚えとこうかな。
多分、明日には忘れてまたアキちゃんに聞くと思うけど。

...。

以上で『古事記』本文上巻㊾~黄泉津大神~のご紹介はおしまいです。

次回は『古事記』本文上巻㊿~黄泉比良坂~をご紹介する予定です。

ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
本日のおまけは一番下にあります。

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