いもみの日記

御朱印集めが趣味のOL(お芋好き女子)です。いろんな神社やグルメを紹介します!

『古事記』序文㉙~序文の疑問点のまとめ~

こんばんは、いもみ🍠です。
昨日は、寝落ちしてしまって更新できませんでした…💦

>いもみの相棒のアキです。
主に翻訳と解説は私がしているのですが…只今会社の研修中の為、翻訳になかなか参加できていません...💦

えと、意識を取り直して...いや、気を取り直して、本日は『古事記』序文㉙~序文の疑問点のまとめ~のご紹介です💦
古事記序文を27回に分けて訳してきましたが、その際に出てきた分かりづらかった点や、疑問点を集めてまとめたものです。
読んでいただく際、参考になれば幸いです(バカげた内容もありますが…)


ある程度カテゴリー分けして【目次】を付けましたので、気になった項目をクリックして読んでくれればうれしいです。

登場人物

【稗田阿礼について】

序文⑰~稗田阿礼(1)~より)
稗田阿礼は、古事記の編纂者の一人ということ以外ほぼ何もわかっていない人物です。
なにしろ『古事記』序文にのみ登場して、後は一切の記述が無いのです。
その為、実在の人物なのか?女性だったのではないか?等多くの説があります。
ちょっと私なりに考察してみました。

①生没年について
→『古事記』は天武天皇が、「帝紀」「上古諸事」の編纂を川島・忍壁(おさかべ)両皇子に命じた事から始まります。
これが天武10年、681年の頃だと考えられています。
序文では稗田阿礼は28歳なので681-28=653年頃生まれた人かもしれません。
②官位について
→編纂事業をした太安万侶は、「正五位上 太朝臣安万侶」と官位がありますが、稗田阿礼はただの「舎人・稗田阿礼」です。
国史編纂という大事業に関わったのに、そんなことってありますかね…?
③稗田氏について
→「新撰姓氏録」という名族一覧表みたいなのがありますが、ここに稗田氏の名は載っていません。
どうも畿内の名族の出ではないようです。
なお、稗田氏は各史書にも姓(かばね)の記載が無く、つまり【無姓】です。
『伊勢から奈良県大和郡山市稗田町に本拠地を移した際に、稗田姓を称した』そうです。
④女性だったかどうかについて
→稗田阿礼の【「阿礼」は女性の名前】であることから、もしかしたら巫女だったんじゃないか…?説があります。
確かに巫女には「神話を口伝する」という役割があります。
巫女だったのなら、国史編纂という大事業に関わりながらその後に名前が出てこなくなるというのも説得力があります。
...ただ、この説がちょっと怪しいのは、【「舎人」が男性の役職名】だからです。
調べてみたのですが、舎人に近い天皇に仕える役職は女性の場合「采女(うねめ)」「宮人(ひめとね)」があります。
『古事記』には「舎人」と明確に書かれているので、ちょっとな~…って感じです。
⑤実在したのかについて
→稗田阿礼の名が一切出てこない上に、「本文」と比べて文体も異なるため「序文」は後世に創作された疑いがあります。
ちなみに太安万侶はお墓も見つかっていて、実在がハッキリしています。

個人の感想になりますが、「一人で天武天皇の言葉を暗誦するのは無理だし、舎人とその部下・同僚とチームを組んで編纂した可能性が高いんじゃないかな?」と思っています。
これだと、例えば稗田阿礼という女性がいて天皇から口伝を聞いて、舎人チームに編纂をさせた…つまり個人の「舎人=稗田阿礼」ではなく、チーム「稗田阿礼+舎人達」みたいな感じで行けると思うのですが。

【『旧辞』『帝紀』と稗田阿礼について】

序文⑱~稗田阿礼(2)~より)
『旧辞』は「くじ、きゅうじ」と読みます。『本辞』とも言います。
『帝紀』同様『旧辞』も現存していないため推測ですが、古代の神話・伝承の記録が記されていたと考えられています。

大和政権が力を持つ以前から、各氏族にはそれぞれの旧辞(神話や伝承)が伝えられていましたが、5~6世紀頃辺りからこれら旧辞の統合が図られ、出来上がったのが『古事記』です。
統合が図られた背景として、これらの記録は基本的に【口承】であったため、覚え間違い・聞き間違いの他、主観で解釈したり、改ざんされたりした可能性もあり、各氏族とも食い違いがあったため...です。
古事記・日本書紀の編纂にも主要な資料として利用された『帝紀』と『旧辞』ですが、これはあくまで大和政権側の行った、つまり勝者側の行った編纂であるので「大和政権側にとって都合が良い解釈になっているかもしれない」という事は考慮した方が良さそうです。

ちなみに、この作業をザックリ分けて見ますと…
①諸国・諸家からそれぞれ歴史書を集める
②食い違いを取りまとめる(言い換えれば諸国・諸家にもそれぞれ言い分があるだろうから、それらを聞いて調整する)
③史実を確定する
④記録する=歴史書作る
...な流れかな~と考えています。
古事記』と同時期に完成した『日本書記』には、天武天皇が681年、川島・忍壁両皇子らに「帝紀および上古諸事」の記録校定事業を命じたことが書かれています。
上記の②は各国や諸家の言い分を調整しなければいけませんから、身分が高い者でなければ諸国の長も言う事を聞かなかったと思うので、両皇子に命じたのかもしれません。

稗田阿礼は舎人という下級役人であったので諸国の長の意見の取りまとめなど出来るはずはないと思います。
だから、上記の作業で言うと②は行わず、③以降に関わったのだろうと思います。
天武天皇が稗田阿礼に求めたのは「正しい史実を記憶する」ことなので、彼を呼んだ時点で③「正しい史実は確定」しているはずです。
しかしこの時『古事記』は完成していないので、④の記録途中の段階かな~と想像しています。

太安万侶は偉い人?【大宝令における位階制について】

序文㉗~古事記の構成(3)「下巻」~より)
「正五位上」について
701年に大宝令が制定され、冠位は30階ありました。
(正一位、従一位、正二位、従二位...と続きます。四位より下は正四位の上下・従四位の上下と4つの官位がありました。ちなみに正一位が一番上で偉いです)

ここでは皇族である親王は、品位(ほんい)と言って、一品から四品までの4階に叙されました。
言い換えれば、【一位~正四位上下までが皇族の位】ということです。
ここからお分かりの様に、正五位上であった太安万侶はかなり偉かったのです。

「勳五等」について
これは勲等と言って「勲功に対して授与されたもの」です。
位階勲等と言って、官位に相当する物であったようです。
勳五等は正五位に相当しています。

「冠位=勲等」のようなイメージでいいと思います。

「朝臣」について
684年に【八色の姓(やくさのかばね)】という制度が作られました。
「朝臣(あそん)」とはその制度の姓(かばね)の一つで、一番上の「真人(まひと)」に次ぐ地位です。
「真人」は皇族に与えられる地位だったので、朝臣は臣下の中で一番上の地位という事になります。

要するに「正五位で上勳五等で朝臣の太安万侶」は、とっても偉い人だった、ということです。

【天武天皇の政策について】

序文⑬~天武天皇の統治(2)~より)
まず代表的な政策を箇条書きにして並べてみました。
①一人の大臣も置かない天皇専制「皇親政治」
②律令を定め、法式を改める。天武政権下で、日本律令体制の基礎が定まった
③初めて「天皇」を称した
④「日本」という国号を採用した
⑤富本銭(最初の貨幣とされる)が鋳造された
…ここまで見てきますと、天武天皇が専制君主として君臨し、強力な中央集権で以て制度改革を推し進めてきたことが伺えます。
続いて…
⑥新嘗祭(にいなめさい)大嘗祭(だいじょうさい)を国家的祭祀にする
⑦皇室の祖先神の天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点(総本山)とした
⑧『古事記』の編纂を命じる
…⑥~⑧を見ますと、天武天皇が日本の習俗や伝統文化を重視し、宗教政策を整備したことが分かります。
このように国家的祭祀や、宮廷儀式は天武天皇によって創始されました。
天武天皇時代に日本の官制改革、文化政策、宗教政策の礎が作られ、その中で古来からの伝統・伝承・文化を整理したことが『古事記』『日本書紀』の編纂に繋がっていくのです。

【古事記の編纂が一時中断した理由について】

序文⑱~稗田阿礼(2)~より)
編纂が中断した理由は、天武天皇崩御(686年10月1日)です。
つまりこれが「運勢が移って時代が異なって」の部分でしょう。
少しわかりずらいので、この辺りに起こった【政変】を時系列に並べて見ます。
※()内は天武天皇との続柄です
681年 川島・忍壁両皇子らに「帝紀および上古諸事」の記録校定事業を命じる
686年 天武天皇崩御
     大津皇子謀反の疑いで自害(子)
689年 草壁皇子死去(子)
690年 41代・持統天皇即位(妻)
697年 42代・文武天皇即位(孫、草壁皇子の子)
707年 43代・元明天皇即位(義娘、草壁皇子の妻)
712年 『古事記』が献上される
ここで詳細は書きませんが、壬申の乱以降、皇位継承を巡ってかなりゴタゴタしていたようです。
この混乱を終息させるためにも、正統な継承者であると書かれた歴史書『古事記』が必要だったのでしょう。

壬申の乱

【天武天皇の即位まで】

序文⑨~虎步於東國~より)
天武天皇が誕生するまでの当時の社会情勢はまさしく激動の時代でした。
国内では645年、中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)が起き、国外では百済滅亡・救援に伴って起きた663年の白村江の戦いに敗戦していました。
政情の不安定化に対し、中央集権体制を進めたため豪族からの反発は強まり、さらに唐の侵攻に備えた人的・経済的負担は莫大であったため国内では不満がくすぶっていたのです。
こういう背景の中、672年、皇室内において天智天皇の後継者争いが原因で壬申の乱が勃発しました。
天智天皇が崩御すると、皇位継承をめぐって天皇の嫡男・大友皇子と天皇の弟・大海人皇子が対立し、古代における最大の内乱となったのです。

天智天皇が嫡男・大友皇子を太政大臣に就任させたことで、大海人皇子は兄の天智天皇からの皇位継承の打診を辞退し、出家するとして吉野に入り、隠棲しました。
吉野で隠棲した大海人皇子は、不満を持つ豪族らと通じて戦の準備を進めていました。
そして、吉野を出た大海人皇子は、わずかな従者と共に私領のあった美濃へ向かい挙兵。
最後は瀬田橋の戦いで、大友皇子の近江朝廷側を打ち破り、大友皇子は自害しました。

【壬申の乱・大海人皇子の挙兵後】

序文⑩~壬申の乱~より)
天智天皇が崩御すると、皇位継承をめぐって天皇の嫡男・大友皇子と天皇の弟・大海人皇子が対立します。
大海人皇子は兄の天智天皇からの皇位継承の打診を辞退し吉野に入り隠棲、豪族らと通じて戦の準備を進めていました。
そして大海人皇子は、わずかな従者と共に私領のあった美濃へ向かい挙兵します。

※以下は旧暦ではありません。
・672年1月7日 天智天皇が崩御(46歳)
→大友皇子が後継者としてその跡を継ぐ
・7月24日 大海人皇子が吉野を出立
→伊賀と伊勢国(三重県)で兵を得て、美濃に向かう
・7月31日 大和と近江の二方面へ進軍開始
→東西の要所であった不破の道を封鎖し東海道・東山道の兵を動員
→大友皇子側も同日美濃に向けて進撃を開始
・8月8日 近江国北東部・息長(おきなが)で戦端を開く
→以後、大海人皇子側の連戦連勝となる
・8月20日 瀬田橋の戦い
→大友皇子側の近江朝廷軍が大敗
・8月21日 大友皇子自害
→壬申の乱終息
・673年2月 大海人皇子即位し、天武天皇誕生
…といった流れとなります。

中国古代の王

古事記では天皇の偉大さを示すために、比較対象として古代中国の伝説の王様や皇帝が登場します。

【黄帝と周王 について】

序文⑫~天武天皇の統治(1)~より)
「軒后」は古代中国の神話伝説時代(古代王朝以前の時代。紀元前2500年くらい前)、最初に中国を統治したとされる「黄帝」を指します。
ちなみに中国では、軒后(=黄帝)を『従わない者を討って道を開き、中国を隅々まで統治した開国の帝王』として描いており、以降誕生した多くの王朝・国家の諸侯は『自分らは黄帝の子孫である』としています。

「周王 」は、古代中国の王朝「周」の王様のことですが、訳すにあたって2人候補者がいます。
ちょっと簡単に...
文王→名は姫昌。殷を倒した革命戦争(牧野の戦い)の名目上の主導者。後に周王朝を創始した武王の父。
武王→名は姫発。文王の次男。牧野の戦いで殷を倒し、後に周王朝を創始した。
そして文王・武王共に「模範的・道徳的な君主の代表例」なのです。

【文命と天乙について】

序文㉑~元明天皇(3)~より)
「文命」は「ぶんめい」、人の名前です。
中国古代の帝で、夏王朝創始者の【文命(名前)】、若しくは諡号で【禹(う)】という人物です。
黄河の治水を成功させたと言われる伝説上の帝です。

「天乙」は「てんいつ」、こちらも人名です。
古代中国・殷王朝の初代の王です。
ちなみに上記の禹(う)が興した夏王朝を滅ぼしてます。
「天乙」は徳が高いことで有名で、その徳は「鳥や獣にまで及ぶ」とまで言われたそうです。

名前(氏姓)

「命・尊(みこと)」って何?違いは??

『古事記』についてより)

神様の名前の最後に「命(~のみこと)」ってつくでしょ?あれってどういう意味なの??

簡単に言うと、「尊敬の意を表わす敬称」よ。
一般的に神様や身分の高い人に使用するの。
高貴な人が発する「御言 (みこと)」 の意味から来ている、とか言われているわ。

神社の御祭神が、同じ神様なのに「命」だったり「尊」なのは何で?

まず、前提から説明すると、古事記で登場する神様は全て「命」に統一されていて「尊」は一切使われていないの。
「尊」が使われているのは『日本書記』なのよ。

ふ~ん。

『日本書記』には「至りて導きを【尊】といい、自余そのほかを【命】という。並みな、美挙等みことと訓よむ」とあるの。
これを簡単に訳すると、
【尊】→天津神や皇室祖先の神々に用いられる
【命】→国津神といったその他の神々に用いられる

となるかしら。

ちょっと【尊】の方が偉いって感じなのかな。

確かに【尊】の方が、より上位の敬称というイメージよね。
でも厳密には「命」「尊」の使い分けはない、と思っていいんじゃないかな。

【尊】が使われている神様を教えて?

えっとね…
国常立尊(クニノトコタチノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)
伊弉冉尊(イザナミノミコト)
素戔嗚尊(スサノオノミコト)
月読尊(ツクヨミノミコト)
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)

…の6柱かな。
こうして並べてみると、いずれも神々の中でも特に重要な神様、って感じね(月読尊はほぼ登場しませんが…)。

『古事記』本文ではよく出てくる神様だね(月読尊はほぼ登場しないけど…)。

ちなみに、イザナギ・イザナミは序文最初は【伊邪那岐神・伊邪那美神と「神」の敬称で登場】するけど、天の神様に「国をしっかり固めよ」と命じられた所から、突然【伊邪那岐命・伊邪那美命と「命」の敬称に変わる】のよ。
こういう所も、注意しながら読んでみると面白いかもしれないわ。

※敬称が変わったのは、天津神の命令=ミコト(=御言=命)を賜ったから、と思われます('ω')ノ

【氏姓について】

序文⑥~賢后と聖帝~』より)
氏(うじ)と姓(かばね)は、自らの【身分を表す称号】でした。
ですが、勝手に名乗ったり、偽ったりする者も多かったため、身分の上下が明確ではなく混乱のもとになっていました。
そこでこの乱れを正そうと、允恭天皇は全ての氏族を飛鳥甘樫丘に集めて氏姓に偽りがないことを群臣に誓わせたのです。

ちなみに…「偽りがないことを群臣に誓わせた」と言っても、口頭でOKみたいな生易しいものではありません。
【盟神探湯(くかたち)】と言う正邪を判断する裁判のもと行われました。
まず神に潔白などを誓わせた後、熱湯の中に手を入れさせ火傷しなかったらセーフ。火傷したら偽る人→アウト...という「みんな大火傷でアウトじゃないかな...💦」と思ってしまう過酷なものでした。

「天皇」の読み方

【天皇の称号について】

序文⑮~帝紀と本辞の誤り(1)~より)
『古事記』では天皇という称号が使用されていますが、いつからこの称号が用いられてきたのかハッキリしていません。
天皇の称号は、漢の国の制度に倣っていて、漢風諡と言われます。

初めは「天皇」と書いて「すめらのみこと」と読み、これは大和(日本)言葉と言います。
更にその前(6世紀頃)は「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。
現在の「天皇=てんのう」と訓読みになったのは奈良時代の事の様です。

『古事記』の成立は712年ですから、6世紀以前の天皇は、正確には「大王(おおきみ)」と呼ばれていたと思われます。
しかし、『古事記』では「天皇(すめらのみこと)」になっています。
多分、編纂時は「天皇」が定着していた(と思う)ので、太安万侶も「天皇」で統一したのかもしれません。
もし、「大王」と「天皇」を使い分けていたら、いつから「天皇」が使われだしたのか分かったかもしれませんね。

【何故「〇〇天皇」ではなく「皇居の地名」で表すのか?】

序文㉕~古事記の構成(1)「上巻」~より)
ところで...何で『推古天皇』ではなくて『小治田御世』という宮殿名で表すんでしょうか?
調べても良く分からなかったんですけど、私個人の考えで言うと…
(A)天皇陛下には苗字や姓が無いから。
→ご存じの方も多いかもしれませんが、皇室は唯一無二で日本に一人だけですから、わざわざ姓や苗字を名乗る必要が無いのです。
また苗字や姓というのは、本来天皇が臣下に授けるものでしたから、最高位である天皇に授ける者などいないのです。
ですから、天皇陛下はじめ皇室には苗字や姓は無いのです。

(B)なので識別するため宮号を使った。

...としか考えられません。
なお、自問自答で以下の反論の可能性がありましたが…

Q1:普通に「推古天皇」でいいのでは?

A1:「〇〇天皇」って以前は、【死後に贈られる諡号だった】から無理じゃね?

Q2:じゃあ、今の「令和」みたいに元号使えばいいのでは?

この前の『古事記』序文㉒~太安万侶への勅命~でも言ったけど、【元号が使われ始めたのが645年の「大化」から】だから、それ以前の天皇は何て呼べばいいのよ?だから「元号」は無理だわ。

...と論破できてしまうので、私達の答えは上記の通り「皇室に苗字が無い為、識別するのに皇居のあった場所を書いた」です。間違ってるかも...💦

【 何故、歴代天皇には複数の呼び名があるのかについて】

序文㉖~古事記の構成(2)「中巻」~より)
「品陀御世」は「品陀和氣命(ほむだわけのみこと) 」、「第15代天皇・応神天皇」の事です。
「神倭伊波禮毘古天皇」は「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」、「初代天皇・神武天皇」の事です。

さて、今回訳が二つになってしまいました。
呼び名が違うだけです。
私達に馴染みがあるのはあるのは、当然①の「初代天皇・神武天皇、第15代天皇・応神天皇」でしょう。
ですが編纂当時の言葉のまま訳すと②「神倭伊波禮毘古天皇、品陀天皇」が正しい気がします。

そもそも何で呼び名が幾つもあるのよ?」と思いませんか?

※詳細をココで書くことは難しいので、簡単に説明しておきたいと思います<(_ _)>

まず「神武天皇・応神天皇」ですが、これは漢風諡号(死後に贈られる贈り名)と言います。
この漢風諡号を付けたのは淡海三船(おうみのみふね、722~785)と言う人物で、奈良時代の学者さんです。
初代・神武天皇~49代・光仁天皇までの漢風諡号を選定したと言われています。
これが天平宝字6~8(762~764)年の事であったようです。

つまり【生前の名前】と【死後に贈られる名(諡号)】と呼び名が二つあるってわけです。
『古事記』の編纂は711年~なので、太安万侶が書いている時点では漢風諡号の「神武・応神」はありませんから、訳として正しいのは「神倭伊波禮毘古天皇、品陀天皇」なのかな?と思ったのです。

ちなみに中華風の漢風諡号があるくらいですから、日本風の【和風諡号】というのもちゃんとあって、上記の「神武・応神」だとそれぞれ「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと) ・誉田天皇(ほむたのすめらみこと)」と言います。
「じゃあ、何で和風諡号で訳さないの?太安万侶も何故、和風諡号を使わなかったの?」と思われるかもしれませんが、多分太安万侶が『古事記』を書いている時点で和風諡号は無かったんだと思います。

諡号は中国から日本に伝わったのですが、この伝わった時期は明確ではなく「8世紀初めころではないか…」と考えられています(遅くとも762年以前にはあったと考えられています)

古事記編纂の711年時点では、諡号は日本に伝わっていたかは分からず、たとえ伝わっていたとしても諡号の選定にも時間がかかるでしょう。
「太安万侶が古事記を書いていた時点で和風諡号が無かったかも」というのは、諡号は選定している段階か、あるいは選定もまだしていない段階、下手すると諡号が伝わってなかった可能性もあるんじゃないか?という意味です。

なので「太安万侶が執筆している時点では諡号は無かった」→「だから古事記では和風諡号を使わない名を書いたんだろう」→「訳する時も和風・漢風諡号を使うと正確ではないかも」という事で、上記の②の訳の形も併用してみた…ということです。

さて、和風諡号に関してですけれど...いつ誰が撰進したのか不明です。
記録が残っていないからです。

資料上最初に確認された和風諡号は『続日本紀』(797年成立)にある「(持統天皇の)火葬を大宝3年(703年)12月17日に行った。諡号は【大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)】だ」という記載です。

逆に記録の無い初代・神武天皇から第40代・天武天皇までの和風諡号と言われるものは、実は和風諡号なのかもしれないし、もしかしたら生前尊号だったのかもしれない...とハッキリとわかっていないのです。

詳細はここでは述べませんが、ややこしくなってきたので、ここまでを少しまとめてみましょう。

呼び名の種類
資料上最初に確認された和風諡号を持つ持統天皇を例に見て行きます。

【生前の名前】
実名本名(諱)
→当然ですが実名があります。実名を諱(いみな)とも言います。
厳密にいうと「諱」は「忌み名」で「口に出して読むのが憚れる=貴人や死者に使われる」という意味があります。

持統天皇の諱は【鸕野讚良(うののさらら)】です。

【死後の名前=諡号】
「諡号」の「諡」は「おくりな=贈り名」と読みます。
生前の事績への評価をつける名が多いようです。
8世紀初めころ伝わった様ですが詳細は不明、ただ遅くとも762年以前にはあったと考えられています。

和風諡号
→いつ誰が撰進したのか不明、資料上で初めて和風諡号が確認されたのは『続日本紀』。
41代・持統天皇の火葬の記載部分に和風諡号があります。

持統天皇の和風諡号は【大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)】です。

漢風諡号
→〇〇天皇と言うように、漢字2文字で表記されます。
淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の学者によって、初代・神武天皇~49代・光仁天皇までの漢風諡号が選定されたと言われています。
選定されたのは762~764年のころだと考えられています。

持統天皇の漢風諡号はもちろん【持統天皇】です。

※この他にも【別称】があったり、【諡号や諱が2つ】あったり...「これ全部覚えてる人いるの?」って言うくらい名前が出てきます…💦
繰り返しになりますけど、ここではあくまで簡単な説明だけに留めたいので、生前の名として①本名(諱)が、死後の名として②和風諡号、③漢風諡号の2つがあった...と覚えておいていただければ嬉しいです♪

参考までに...<(_ _)>
~【諡号】の年表~
8世紀初め頃? 中国から諡号が伝わる(762年以前にはあった)

703年  持統天皇火葬(『続日本紀』には和風諡号の記載がある)

711年  『古事記』の編纂スタート

762年以前 多分和風諡号は存在していた

762~764年頃 淡海三船により初代・神武天皇~49代・光仁天皇までの漢風諡号が選定される

797年  『続日本紀』成立
...です。

【天皇の呼び名・まとめ】

序文㉗~古事記の構成(3)「下巻」~より)
昨日もお話しましたが、古事記では天皇に幾つも呼び名があります。
ちょっとまとめておきましょう。
本名(諱とも)
→古事記に表記がある
和風諡号
→死後に贈られる名。古事記の段階でまだ日本には無かったかも?なので表記は無い。
漢風諡号
→死後に贈られる名。762~764年頃淡海三船により選定、なので表記は無い。
その他
→皇居の名前を付けたパターン。古事記に表記がある。

暦と元号

【新暦と旧暦】について

序文㉒~太安万侶への勅命~より)
細かいトコは省いてしまいますが、簡単に言うとポイントは以下の2点です。
(A)1872年(明治5年)に採用された太陽暦が新暦、それ以前の暦が旧暦。
(B)1年の日数が異なる
【新暦】→太陽の動きが基準で1年365日
【旧暦】→月の動きが基準で1年354日
現在暦のズレは「4年に一度の閏年」で修正していますが、旧暦は「約3年に一度の閏月(この年は13か月ある)」で修正していました。
旧暦は中国から日本に入ってきて、6世紀末の飛鳥時代には導入、和暦として使用していたそうです。
新暦を採用したのは「世界基準に合わせること」が最大の理由でした。
また本当かどうか分かりませんが「旧暦で1年が13ヵ月あると、給料を13回出さなければならなくなる」という理由もあったとか、無かったとか...。
ちなみに旧暦「和銅四年九月十八日」は、現在の新暦で言うと「711年11月3日」です。

【元号】について

序文㉒~太安万侶への勅命~より)
細かいトコは省いちゃいます、ポイントだけ。
(A)年代につけられる称号で中国から伝わった(ちなみに前漢の武帝時代に始まったとされ、一番最初の元号は「建元・紀元前140年~」です)
(B)日本における最初の元号は「大化」(645年7月29日~・孝徳天皇の時です)
(C)現在日本が唯一、元号を使用している
こんな感じですかね…なお「改元の理由は様々」です。
ちなみに「和銅」という元号は「武蔵国より和銅が献上された」ことから改元されました。

古事記の読み方

【音読みと訓読みの違い】について

序文㉓~太安万侶からの注意点(1)「於字即難」~より)
音読み→昔の中国の発音を元にした読み方、聞いただけでは意味が分からない事が多い。
訓読み→漢字の意味を表す日本語の読み方、聞いただけでも意味がわかる事が多い。

古事記』は原典が漢字で書かれています。
そして1300年前の言葉・意味で書かれていますので、これを現代の私達が読むのは、とても難しいことです。
似たような事が太安万侶が編纂する時にもあって、中国語(音読み)日本語(訓読み)マジ難しい!と愚痴っているわけです。

想像してみて下さい...例えばマックで二人の美女が会話しています。しかし音読みだと伝わるでしょうか?

「ガコウウショウ」(音読みです)

いや、わかるかッ!

ってなりますよね?しかし、訓読みなら...

「われこのいもちい」(訓読みです)

あっ!分かっ...いや、やっぱりわかるかッ!!

...あれ?おかしいな、もう一度訓読みで...

「我好芋小(われこのいもちい)」

えっと…『私、ポテトのSサイズが好き』…?知るかッ!

ねっ?訓読みなら伝わったでしょう?え?そうでもない?
太安万侶もこんな感じで苦労した、と以下に書いています。
以上【音読みと訓読みの違い】についてでした<(_ _)>

【漢文訓読と借字】について

序文㉓~太安万侶からの注意点(1)「於字即難」~より)
次に【漢文訓読と借字】について考えてみたいと思います。

漢字が伝わる前、日本語には固有の文字がありませんでした。
つまり漢字を素に日本で生まれた【仮名】(ここでは平仮名・片仮名の意味です)も無かった、という事になります。
やがて漢字・漢文が伝わりました…しかし漢文は中国語の為の文、当然音も構文も異なる日本語にはそのまま使用できません。

そこで日本語として理解するために生み出されたのが漢文訓読でした。
これは少し難しいのですが一言で言いますと【文法は漢文のままだけど、訓点を付けて日本語の文体に置き換えた読解方法】です。
しかし、「置き換え」出来ないものもありました。それは固有名詞です。

例えば...私の名前(もちろん本名ではないが)「いもみ」漢字で「芋美」の場合。
芋は訓読みで「いも」ですが、美は訓読みでは「うつく」になってしまい、「芋美」なのに「いもうつく」になってしまいます。

なので、これを解消するために漢字の発音だけを用いて、日本語の音に当てる「借字(しゃくじ)」が出来ました。
いわゆる万葉仮名です。
『古事記』にもこの万葉仮名はよく用いられています。

想像してみて下さい...例えばマックで二人の美女が【漢文訓読と借字】について会話しています。
(※ご注意ください、全く参考になりません<(_ _)>)

我好面包挟牛肉起司(※実際こんな文はありません

はぁぁぁ?!
えっと…訓点を付けると我好、面包挟牛肉起司かな...?
面包がパン、牛肉と起司(チーズ)を挟むだから...!
分かった!マックシェイクだ!!

正かっ...はぁぁぁ?!
ハンバーガーでしょぉぉぉ!

ハンバーガーを漢字が本来持つ意味を無視して日本語の音にあてる「借字」すると…?

反婆餓亞。

かなり無理がある解説になったわね…。

え~…以上です<(_ _)>💦

【古事記を読むには音読みと訓読みを併用する】

(序文㉔~太安万侶からの注意点(2)「辭理叵見」~より)
直訳すると「亦(また)『日下(くさか)』という姓(かばね)に於いては『玖沙訶(くさか)』と言い、『帯(たらし)』という名に於いては『多羅斯(たらし)』と言う」

...「何なの、これ?」という方もいるでしょうから軽く説明します。
①まず「日下」も「帯」も読むのはかなり難しい字です。
②しかし編纂者の太安万侶としては読めるようにしたい。
③ところが当時は平仮名はまだ無い(フリガナ出来ない)。
④ならば漢字本来の意味とは違うけど、音読みの漢字を充てて読めるようにしよう(これを「借字」と言います)。
⑤『日下』は音読みの字で『玖沙訶』を、『帯』はこれも音読みの『多羅斯』という字を充てよう。
...という感じの意味なのです。

昨日の繰り返しになりますが、古事記』の本文は「これはこのままでも読めるよな...」っていうのは訓読みでそのままにしていて、逆に「これってこのままじゃ読めないよな...」」っていうものは、別の漢字をあてがって音読みで読めるようにしてある...って認識で良いと思います。

例えば...こんなイメージです。
【焼鳥】 →「これはこのままで読めるよな...意味も分かるし音読みにしなくていいか」(訓読みで字も変えない)
【棒棒鶏】→「ボーボー鶏って読んじゃう人いるかも...漢字の意味は違うけど音読みの漢字をあてがってみんな読めるようにしよう!バンバンジーは...【蛮蛮爺】と書き記そう!」(音読みの漢字をあてがった)
※実際こんなおバカな音読みはありません<(_ _)>

直訳では言葉足らずで分かりずらいので、ここは長くなってしまうけど…
「また姓名に関しては、『日下』や『帯』といった訓で読むのが難しいものであれば、『玖沙訶』『多羅斯』というような音で読み易く」と訳しました。

その他の知識

【狼煙のうんちく】について

序文㉑~元明天皇(3)~より)
①狼煙の歴史は古く、弥生時代からあったそうです。
また律令下では『40里(1里は約2km)毎に狼煙台(烽)を置く』ことなどが規定されていました。
②「狼煙」って「オオカミの煙」って書きますよね?
これは狼煙を上げる時に【狼のウンコ💩】を使用していたことに由来しています。
なんでも【狼のウンコ💩】を燃すと、その煙は風があっても真っすぐに上昇するそうで「連絡用に最適!」なんだそうです。

以上で『古事記』序文㉙~序文の疑問点のまとめ~のご紹介はおしまいです。
次回は『古事記』本文上巻①~別天つ神(1)「造化三神」~をご紹介する予定です。


ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
本日のおまけは一番下にあります。

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