いもみの日記

御朱印集めが趣味のOL(お芋好き女子)です。いろんな神社やグルメを紹介します!

『古事記』序文㉖~古事記の構成(2)「中巻」~

こんばんは、いもみ🍠です。
本日は、『『古事記』序文㉖~古事記の構成(2)「中巻」~』のご紹介です。

こんばんは、アキです。
主に翻訳と解説を担当しています。

【前回のあらすじ】
この書(=古事記の事)には、世界の始まりである天地開闢から、小墾田宮(おはりだのみや)において執政された推古天皇の時代までにあった出来事のあらましを記しました。
すなわち、天地開闢時の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)はじめ神々が御誕生になった時から、その神々の子孫であり、初代天皇・神武天皇の父君である天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)までの出来事を記したものを上巻とし、

前回は古事記が「天地開闢~推古天皇までを記したもの」と説明がありました。
このうち上巻においては「世界の誕生・神々の出現から始まり、神武天皇誕生まで」が書かれているという内容でした。
今回は中巻の内容・範囲について説明しています。
さて、今回は凄く短いので楽勝~♪...と思ってたら疑問点が出てきて、調べてたら4時間かかってました(=゚ω゚)ゲッ!

『古事記』序文㉖~古事記の構成(2)「中巻」~

【原文と読み方】
【原文】
神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷。


【読み方】
神倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)天皇(すめらみこと)以(より)下、品陀(ほむだ=品陀和氣命・ほむだわけのみこと)の御世より前(さき)を中卷(なかつまき)と爲(す=し)

【訳】
※今回は訳が2つあります。名称が違うだけで同一人物を指しています。分かりやすいのは①ですが、もしかしたら②の方が正しい気がしています。理由は【解説】をご覧ください<(_ _)>
①初代・神武天皇(てんのう)から、第15代・応神天皇(てんのう)の御代までにあった出来事を記したものを中巻とし、

②神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといわれびこすめらみこと)から、品陀天皇(ほむだすめらみこと)の御代までにあった出来事を記したものを中巻とし、

先に言っておくと…長いですよ…💦💦

【解説】
神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷。
下記は昨日も出てきた言葉なのですが、もう一度。
「爲」は「す(る)、な(る)」と読みます。
ここでは「する、おこなう」の意味です。
「以下」「以前」はそれぞれ「いか」「いぜん」でもいいと思うんですけど、正しく読むなら「以って下(した)」「以って前(さき)」かな~と思います。
「以」は「もって」という読みなんですが、意味として「~から、~より」もあって、原文ではいずれも通じるので私の読み方は「以=~より」としています。

何故、歴代天皇には複数の呼び名があるのかについて

「品陀御世」は「品陀和氣命(ほむだわけのみこと) 」、「第15代天皇・応神天皇」の事です。
「神倭伊波禮毘古天皇」は「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」、「初代天皇・神武天皇」の事です。

さて、今回訳が二つになってしまいました。
呼び名が違うだけです。
私達に馴染みがあるのはあるのは、当然①の「初代天皇・神武天皇、第15代天皇・応神天皇」でしょう。
ですが編纂当時の言葉のまま訳すと②「神倭伊波禮毘古天皇、品陀天皇」が正しい気がします。

そもそも何で呼び名が幾つもあるのよ?」と思いませんか?

※詳細をココで書くことは難しいので、簡単に説明しておきたいと思います<(_ _)>

まず「神武天皇・応神天皇」ですが、これは漢風諡号(死後に贈られる贈り名)と言います。
この漢風諡号を付けたのは淡海三船(おうみのみふね、722~785)と言う人物で、奈良時代の学者さんです。
初代・神武天皇~49代・光仁天皇までの漢風諡号を選定したと言われています。
これが天平宝字6~8(762~764)年の事であったようです。

つまり【生前の名前】と【死後に贈られる名(諡号)】と呼び名が二つあるってわけです。
『古事記』の編纂は711年~なので、太安万侶が書いている時点では漢風諡号の「神武・応神」はありませんから、訳として正しいのは「神倭伊波禮毘古天皇、品陀天皇」なのかな?と思ったのです。

ちなみに中華風の漢風諡号があるくらいですから、日本風の【和風諡号】というのもちゃんとあって、上記の「神武・応神」だとそれぞれ「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと) ・誉田天皇(ほむたのすめらみこと)」と言います。
「じゃあ、何で和風諡号で訳さないの?太安万侶も何故、和風諡号を使わなかったの?」と思われるかもしれませんが、多分太安万侶が『古事記』を書いている時点で和風諡号は無かったんだと思います。

諡号は中国から日本に伝わったのですが、この伝わった時期は明確ではなく「8世紀初めころではないか…」と考えられています(遅くとも762年以前にはあったと考えられています)

古事記編纂の711年時点では、諡号は日本に伝わっていたかは分からず、たとえ伝わっていたとしても諡号の選定にも時間がかかるでしょう。
「太安万侶が古事記を書いていた時点で和風諡号が無かったかも」というのは、諡号は選定している段階か、あるいは選定もまだしていない段階、下手すると諡号が伝わってなかった可能性もあるんじゃないか?という意味です。

なので「太安万侶が執筆している時点では諡号は無かった」→「だから古事記では和風諡号を使わない名を書いたんだろう」→「訳する時も和風・漢風諡号を使うと正確ではないかも」という事で、上記の②の訳の形も併用してみた…ということです。

さて、和風諡号に関してですけれど...いつ誰が撰進したのか不明です。
記録が残っていないからです。

資料上最初に確認された和風諡号は『続日本紀』(797年成立)にある「(持統天皇の)火葬を大宝3年(703年)12月17日に行った。諡号は【大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)】だ」という記載です。

逆に記録の無い初代・神武天皇から第40代・天武天皇までの和風諡号と言われるものは、実は和風諡号なのかもしれないし、もしかしたら生前尊号だったのかもしれない...とハッキリとわかっていないのです。

詳細はここでは述べませんが、ややこしくなってきたので、ここまでを少しまとめてみましょう。

呼び名の種類
資料上最初に確認された和風諡号を持つ持統天皇を例に見て行きます。

【生前の名前】
実名本名(諱)
→当然ですが実名があります。実名を諱(いみな)とも言います。
厳密にいうと「諱」は「忌み名」で「口に出して読むのが憚れる=貴人や死者に使われる」という意味があります。

持統天皇の諱は【鸕野讚良(うののさらら)】です。


【死後の名前=諡号】
「諡号」の「諡」は「おくりな=贈り名」と読みます。
生前の事績への評価をつける名が多いようです。
8世紀初めころ伝わった様ですが詳細は不明、ただ遅くとも762年以前にはあったと考えられています。

和風諡号
→いつ誰が撰進したのか不明、資料上で初めて和風諡号が確認されたのは『続日本紀』。
41代・持統天皇の火葬の記載部分に和風諡号があります。

持統天皇の和風諡号は【大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)】です。

漢風諡号
→〇〇天皇と言うように、漢字2文字で表記されます。
淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の学者によって、初代・神武天皇~49代・光仁天皇までの漢風諡号が選定されたと言われています。
選定されたのは762~764年のころだと考えられています。

持統天皇の漢風諡号はもちろん【持統天皇】です。


※この他にも【別称】があったり、【諡号や諱が2つ】あったり...「これ全部覚えてる人いるの?」って言うくらい名前が出てきます…💦
繰り返しになりますけど、ここではあくまで簡単な説明だけに留めたいので、生前の名として①本名(諱)が、死後の名として②和風諡号、③漢風諡号の2つがあった...と覚えておいていただければ嬉しいです♪

参考までに...<(_ _)>
~【諡号】の年表~
8世紀初め頃? 中国から諡号が伝わる(762年以前にはあった)

703年  持統天皇火葬(『続日本紀』には和風諡号の記載がある)

711年  『古事記』の編纂スタート

762年以前 多分和風諡号は存在していた

762~764年頃 淡海三船により初代・神武天皇~49代・光仁天皇までの漢風諡号が選定される

797年  『続日本紀』成立
...です。

「天皇」の読み方について

訳を見てみると【天皇】が…「てんのう」と「すめらみこと」となっています。
この2つの読み方の違いも簡単に説明しておきたいと思います。
紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一し「皇帝」の称号が誕生して以降、日本ではどんな流れだったのか見てみますと、こんな感じかな~と。

~【君主の称号】の年表~

6世紀頃 「大王(おおきみ)」「すめらみこと」と呼ばれていた

608年 聖徳太子が「東天皇敬白西皇帝」と隋の皇帝に返書する

673年 第40代・天武天皇即位、初めて「天皇」を自称?

7世紀後半 「天皇」の称号が一般的に使われる

702年 大宝律令により「天皇」の称号使用が定められる

...って感じでしょうか。

まず称号ですがこの様に変化しています。
※()内は読み方です。
「大王(おおきみ)」→「天皇(すめらみこと)」→「天皇(てんのう)」

まず6世紀以前の日本では君主を「大王」、「おおきみ、すめらみこと」と呼んでいたようです。
つまり、「王」が最高位です。

一方中国では秦の始皇帝以降、最高位は「皇帝」でした。
そして【皇帝が他の王たちを従える】という形をとっており、日本も「倭王」の称号を授けられており中国皇帝に臣従している、という位置づけでした。

7世紀に入り、大化の改新を挟んで日本は中央集権化が急速に進み、それに比例して国力も増していきました。
そこでこれまでの「中国皇帝に臣従」から「対等の立場」になろうという動きが出てきました。
「王」という称号は臣従を意味する言葉でもあったため、「天皇」という新しい称号を作ったのです。

『日本書記』には、607年の小野妹子ら遣隋使に対する隋皇帝の返書が日本に届き、さらにその隋皇帝への返書に「東天皇敬白西皇帝」と書いた...ということが記載されています。
ちなみに、主要史書で確認できる最初の例がこの国書の記載です。

「私達はもう『王』ではない、貴方と同じ『皇帝』なのだ」と宣告したわけですね。
この辺りの経緯や背景も興味深くて面白いのですが、ここでは簡単な説明だけですので詳細には触れません。
とにかくここまでが「大王」から「天皇」に変わっていった流れです。

次に「すめらみこと」について。
「天皇」という称号がいつから使われたかはハッキリしていません。
ですが6世紀以前、君主は「おおきみ」もしくは「すめらみこと」と呼ばれていました。
これらは「日本語(やまとことば)」と言い「天皇」に「すめらみこと」をあてた…という感じの様です。

そして「すめらみこと(天皇)」を、いつから音読みの「てんのう」と読むようになったかは…分からないのです。
一説には、上記で出てきた淡海三船が漢風諡号を選定した段階で「天皇=てんのう」としたとか、しないとか...私もこの説にかなり引き込まれていますが、分からないことは分からないので、断言は避けたいと思います。

なお、上記の年表でもお分かりいただけるかと思いますが、太安万侶が『古事記』の編纂を始めた時代には「天皇(すめらみこと)」が定着しています
だから、多分まだ大王と呼ばれていた時代の君主についても「○○大王」と記さず「神倭伊波禮毘古天皇、品陀天皇」と表記したのでしょう。
※「品陀天皇」は序文では「天皇」がついていませんが、本文の下巻には「品陀天皇」と表記してあったので、今回の訳でも「天皇」を付けています<(_ _)>


以上で『古事記』序文㉖~古事記の構成(2)「中巻」~のご紹介はおしまいです。

次回は『古事記』序文㉗~古事記の構成(3)「下巻」~をご紹介する予定です。

ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
本日のおまけは一番下にあります。

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