こんばんは、いもみ🍠です。
本日は、東京都千代田区外神田にあります『神田明神』のご紹介です。
明治時代に社名を変え、正式名称は『神田神社』です。
江戸時代には、江戸城の表鬼門守護の場所である現在地に鎮座し【江戸総鎮守】とも呼ばれました。
また神田祭は「日本の三大祭り」「江戸三大祭」の中に数えられるようになりました。
明治以降も東京の12の主要神社である「准勅神社」となり、明治天皇の御参拝もあり、【神田明神は東京の守り神】と言われています。
この様に江戸時代以降、日本の首都の守り神的な神社『神田明神』。
大変歴史があり、全てを網羅できませんが、気になる所を中心にまとめてみました!
場所と駐車場について
↓【場所】はコチラです↓
【駐車場】
神社正面から入って奥に参拝者駐車場があります。
15台分くらいでしょうか。
近くのパーキングでは『秋葉原UDXパーキング(800台)』と『秋葉原ダイビル駐車場(112台)』が徒歩数分でしたので便利です。
…が、料金が一日2000円(だったと思います)とお高めです…💦
【電車】
JR・メトロ各線「御茶ノ水」「秋葉原」「末広町」駅から数分です。
電車の方が楽ですね。
【お手洗い】
境内内の「神田明神文化交流館」内に、ホテルのトイレみたいなのがありました。
創建
⇒730年(天平2年)
社伝によれば、730年武蔵国豊島郡芝崎村(現在の大手町)に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祀ったことに始まる、といわれています。
その後、江戸時代に入り表鬼門にあたる現在地に移っています。
由緒
御祭神
⇒大己貴命・少彦名命・平将門命
~御祭神の歴史~
730年 大己貴命が鎮座
1309年 平将門命が奉祀
1874年 少彦名命が大洗磯前神社より奉祀
1874年 一時、摂社・将門神社に遷座
1984年 本殿に再度奉祀
神田明神を参拝したら、成田山新勝寺を参拝してはいけない?
「神田明神を参拝したら、成田山新勝寺を参拝してはいけない」とよく聞くけど、何がいけないの?
平将門は「新皇」を自称して、朝廷に叛乱を起したでしょ?
これに対し、朝廷側は朱雀天皇が、寛朝(かんちょう)という僧に「成田山新勝寺へ行って、叛乱鎮圧の祈願をしてきて」と勅命を出すの。
その後、叛乱は鎮圧された...こういう経緯があったから、「平将門が御祭神として祀られている神田明神と、将門の叛乱鎮圧の祈願が行われた成田山新勝寺を参拝することは将門を苦しめることになる」と言う事で、タブー視されているのよ。
...私達、両方参拝しちゃってるね…💦
...そ、そうね💦
ところで、平将門が神田明神に祀られているのは何でなの?
将門敗死の後、首は京都に送られたんだけど「将門の首は京都から持ち去られて、神田明神の近くに葬られた」と言われているの。
ふむふむ…。
さらに1303~1306年頃、疫病が大流行して「これは平将門の祟りなのでは」と噂が広まったのよ。
なので祟りを鎮めようと、将門の供養が行われて神田明神の相殿神となった(1309年)...ってわけ。
平将門の神社が2回も遷った理由
なんで平将門は2回も遷座してるの?
上でも触れたけど、平将門は叛乱を起こして朱雀天皇の勅命で討たれてるでしょ?
つまり【平将門は天皇・朝廷に弓ひいた逆臣】ということになっているの。
あぁ…!つまり「天皇が参拝するのに、逆臣が祀られていたら問題だ」ってことね?
そうそう。
だから初めて明治天皇が行幸する時(1874年)に、祭神から平将門を外して境内摂社に遷したの。
代わりに大洗磯前神社から少彦名命が勧請されて御祭神になった...っていう流れなのよ。
その後、また平将門は本社の御祭神に戻ったんだね。
本社の御祭神に戻ったのは1984年だそうよ。
ちなみに神田明神では、【一の宮に大己貴命】が、【二の宮に少彦名命】が祀られていて、【平将門命は三の宮】に祀られているんだけど、遷座しなかったら二の宮に祀られていたのかしらね?
良かったらご覧ください<(_ _)>
ご利益
⇒縁結び・商売繁昌・除災厄除け・勝利祈願など
神田明神は勝負ごとに勝つ神様
神田明神に祀られている平将門神は、祈願すると「勝負ごとに勝つ」と言われています。
これは、徳川家康が天下分け目の関ヶ原の戦いに出陣する際、神田明神で戦勝の祈祷を行い勝利した、ということに由来しています。
なお関ヶ原の戦いは9月15日、神田祭の日も9月15日。
このため、この日は縁起が良いとして、神田祭を絶やすことなく執り行うよう命ぜられたそうです。
神田明神は縁結びの神様としても有名
神田明神は縁結びの神様としても大変有名です。
「男女の縁結び」だけでなく「あらゆるものの縁を結んでくれる」と言われていますよ。
(あら...?いもみが真剣な顔でお祈りしてる...。
気になる人でもいるのかな...?)
ブツブツ...「あらゆる円」を私に...ブツブツ...。
その「円」じゃねーよ…。
境内のご紹介
それでは、境内のご紹介です!
まずは案内図をご覧ください。
なんだかんだコレが一番早い!(←ちゃんと言葉で説明してください!!)
随神門です。
昭和天皇の御即位50年記念として建立されました。
楼門を潜ると左手にお土産屋さんがあり、ここで軽食も頂けます。
この日は暑かったので、日陰で休憩されてる方が多かったです。
ちなみに私たちは湯島天神から歩いてきたので、裏参道から入りました。
境内の様子はこんな感じです。
とにかく広いです!
こちらが拝殿です。
関東大震災で焼失してしまいましたが、東京大空襲では焼失を免れて今に至っています。
境内には沢山の建造物や石碑があります。
流石に全てをご紹介するのは無理なので、ここではちょっと気になったものだけをご紹介します。
①獅子山
武州下野の石切藤兵衛という名工が、生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つだそうです。
獅子が我が子を千尋の谷に突き落とし、這い上がってきた子だけを育てるというお話を造形化したものです。
千代田区指定有形民俗文化財になっています。
②大黒様の像
大きい!高さ6.6m・重さ約30t。石造りとして日本一の大黒像ですって!
③えびす様のモニュメント
恵比寿様こと少彦名命は、「医学やお酒の作り方などを教えた後に常世の国に帰って行った」と言います。
常世の国とは「海の彼方」にあるそうなので、このモニュメントはその様を表しているのでしょうね。
④境内末社巡り
以下に、要約しますね。
『~社日(しゃにち)参り~
春と秋の彼岸に近い戊(つちのえ)の日のお参り。
この時、石の鳥居を7つくぐってお参りすると、中風・ボケ封じになるという信仰・慣習がある。
都内では7つの石鳥居が揃った神社はなかなか見当たらず、戊の日には多くの参詣がある』
神社にいた時は気付かなかったのですが、家に帰ってから境内図を見たら、拝殿左の水神社(魚河岸水神社)から時計回りで拝殿後ろの合祀殿まで石鳥居が7つありました。
⑤銭形平次の碑
銭形平次は、神田明神下台所町の長屋に住み、この界隈を舞台に活躍していたことからこの碑が建てられたそうです。
この他にも沢山見所がありますよ。
詳細は神田明神のHPをご覧ください<(_ _)>
Home|江戸総鎮守 神田明神
神田明神の御朱印
御朱印は神田明神文化交流館内で頂くことができます。
神田明神文化交流館内はメチャクチャ凄かった!
中は、飲食店だったりお土産屋さんだったりがありました。
頂いた神田明神の御朱印がこちらです。
以上で『神田明神』のご紹介はおしまいです。
私達が参拝に行ったのは日曜日の15時くらいだったのですが、この時間帯でも境内には多くの参拝客がいて、改めて人気の高さを感じました。
丁度、神前式も行われていて「いいな~」と思ってしまいました!
また来ます!
ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
※本日のおまけは一番下にあります。
お気に入りいただけたら、下のバナーをクリックしてもらえると嬉しいです。
応援よろしくお願いします📣
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
~本日のオマケ~
帰り道の秋葉原。歩行者天国✨でした!
歩行者天国が「午前中やってない」って知っていましたか?!
日曜日の13:00~17:00(4~9月は18:00まで)なんですね~。
帰りの電車の中でさりげなく調べてみて、初めて知りました!