いもみの日記

御朱印集めが趣味のOL(お芋好き女子)です。いろんな神社やグルメを紹介します!

徳川家康の孫「千姫」が眠る、弘経寺に行ってきました。

こんばんは、いもみ🍠です。

朝ドラで泣かされっぱなしです( ノД`)シクシク…
今後はどんな展開を迎えるのでしょうか?
気になって仕方ありません💦
本日紹介する千姫もきっと時代に振り回された女性だったのではないでしょうか?



本日は徳川家康の孫「千姫」のお墓がある茨城県常総市の『弘経寺(ぐぎょうじ)』に行ってきたので、ご紹介をしたいと思います。
正式名を『寿亀山天樹院弘経寺』と言います。
天樹院は出家した千姫の号です。
↓地図はこちらです↓

人里離れたのどかな所にお寺がありました。
駐車場はお寺の隣に10数台停められます。
またこちらの駐車場の周りは、秋には彼岸花が咲いて有名だそうですよ?
お手洗いは境内にありました。


~創建~

1414年、嘆誉良肇(りょうちょう)の開山により創建されました。

~千姫について~

⇒歴史オタクのアキちゃんが詳しいのでご紹介してもらいました。
1597年 誕生。秀忠の長女で徳川家康の孫。4月11日生まれ。
1603年 7歳で秀頼と結婚し、大坂城に。
1615年 大坂夏の陣で大坂城から救出。秀頼死亡。
1616年 本多忠刻(忠勝の孫)と結婚。
1618年 長女・勝姫誕生
1619年 長男・幸千代誕生
1621年 長男・幸千代が3歳で死去
1626年 夫(忠刻)・母(江)らが没。出家し天樹院に
1643年 鎌倉の東慶寺の伽藍を再建
1666年 70歳で死去。


※大阪城落城の際、千姫は秀頼と淀殿に対する助命嘆願をしています。
この嘆願は祖父の家康公には聞き入れられませんでしたが、千姫は秀頼と側室の間の娘・天秀尼(てんしゅうに)を自らの養女にし、寺に入れることを条件にして命を助けています('ω')ノ
天秀尼は駆込寺(縁切寺)で有名な東慶寺に入って、東慶寺の20世住持になりました。
上記で「1643年 鎌倉の東慶寺の伽藍を再建」と書いたのは、天秀尼のことを書きたかったからです。
なお、天秀尼は1645年に亡くなっており、ここに豊臣家の直系は絶えています…(´・ω・`)


千姫と本多忠刻との間に生まれた勝姫は、池田光政に嫁ぎ徳川斉昭・慶喜の血筋となっていきます

~弘経寺~

関東浄土宗の中心寺院でしたが、第九代の存把上人の時に多賀谷氏と北条氏の戦いに巻き込まれ、多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で焼けてしまったそうです(1577年)
その後、弘経寺は寺院活動の停止を余儀なくされましたが、第十代の照誉了学上人の時に徳川家・本多家から帰依を受け再興を果たしていきます。
この過程で弘経寺が、徳川家康の孫であり、本多家に再嫁した千姫の菩提寺となっていくのです('ω')ノ
照誉了学上人と、それぞれの関係と経緯を簡単にまとめてみましたのでご覧ください<(_ _)>


~①徳川家との関係~
→北条家滅亡後、関東に新領主として入ってきた徳川家康は浄土宗を信仰していたため、第十代の照誉了学上人は寺領の安堵を受け、寺院再興の時期を迎えます('ω')ノ
1600年頃、徳川家康の推挙で紫衣(→紫色の衣服。高官のみの高貴な色で、庶民は紫は服にして着ることができない禁色だった)を授かったり、度々江戸城や駿府城で講和を行うなど、家康の後も秀忠・家光と徳川三代に渡り厚遇されていきます。
後に了学上人は、徳川氏の菩提寺である増上寺17世貫主に任じられ、2代将軍・秀忠の葬儀を行いました


~②徳川家重臣・本多家との関係~
→上総国大多喜城の城主であった徳川家の重臣・本多忠勝の依頼で城下にお寺を創建しています。
1610年・本多忠勝が病死すると、忠勝の遺言により了学上人が葬儀を行っており、本多家では家族挙げて了学上人に帰依しています('ω')ノ


~③千姫との関係~
→徳川家康の孫で、本多家にお嫁に行った千姫はここまで見てきたように、了学上人と所縁があります。
1621年長男が亡くなり、その5年後に夫と母を相次いで亡くした千姫は、30歳の時に江戸城に戻って出家し天樹院と号するようになりました。


この時戒師をつとめたのが、深く帰依していた弘経寺第十代の照誉了学上人です。千姫は弘経寺が荒廃しているのを知り、多大な寄進をしています。
この様な経緯があって、千姫が亡くなると墓所は天樹院弘経寺となりました。
また定例により徳川家が帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院に、分骨されています('ω')ノ


では境内のご紹介です(=゚ω゚)ノ
こちらが入り口です。境内にはいると桜の木が沢山植えていました。
春の開化の頃はとても綺麗になるんでしょうね~(*^-^*)


弘経寺についての看板がありました。千姫についても触れられていました。

弘経寺は常総市指定文化財になっているんですね。
「千姫ゆかり遺品は明治39年不発の花火での火事で、焼失してしまった」と書いてありました…(´・ω・`)

手水舎はには亀さんがいました。「寿亀」めでたい感じがします(´ω`*)
寿亀は山号ですね。

こちらが本堂です。
写真では伝わりずらいですが、かなり大きいです。

徳川の家紋である「葵」がありました。
上記の看板にも千姫死去後、「彼女の遺品が寄付され、御紋付の使用が許された」と書いてありましたね('ω')ノ

こちらが千姫のお墓です。見えづらくてごめんなさい🙇
徳川の家紋が施されている扉の奥にお墓がありました。
すぐに見つけることが出来ました。
中には入れませんでしたが、千姫の誕生日(4月11日)前後に天樹祭というお祭りがあって、その日は中を見れるそうですよ?


御朱印ですが、私たちが訪れたのが早かったため今回は見送りました。
天樹祭(4月11日)に都合がつけば、その時にまたこちらを訪れて、御朱印を頂こうと思います!

【追記】
3月28日に桜を見に再度参拝して来ました!
その際に御朱印を頂いたのがこちらです。
住職さま、お忙しいなかどうもありがとうございました!!<(_ _)>
初穂料は「お気持ちで...」ということでしたよ(´ω`*)

ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
本日のおまけは一番下にあります。

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本日のオマケ
アキちゃんが食べた激辛味噌ラーメン🍜
辛すぎて味がわからなかったと言ってました( ºωº )