いもみの日記

御朱印集めが趣味のOL(お芋好き女子)です。いろんな神社やグルメを紹介します!

『古事記』序文㉓~太安万侶からの注意点(1)「於字即難」~

こんばんは、いもみ🍠です。
本日は、『『古事記』序文㉓~太安万侶からの注意点(1)「於字即難」~』のご紹介です。

こんばんは、アキです。
主に翻訳と解説を担当しています。

【前回のあらすじ】
この元明天皇の時代になって、旧辞・帝紀を選定しなおした正しい歴史書編纂の事業が頓挫しているのを惜しみ、和銅四年九月十八日に元明天皇は「天武天皇が稗田阿礼によませた旧辞・帝紀を書き取り『古事記』を献上せよ」と私、太安万侶にお命じになりましたので、謹んで仰せの主旨に従いまして、事細かにこれを記録いたしました。

30年前に頓挫した歴史書再編の事業がリスタートした…というのが前回語られました。
今回はこの編纂の記録を命じられた太安万侶が、編纂に当たってその表記の難しさと、どう解釈したかの注意点が語られます。
読むと太安万侶の苦労が分かります…私も訳す時に意味が分からない言葉は数多く出ますけど、ネットなど調べるツールは沢山あります。
でも彼の時代は…と思うとなおさらです。
「ただなぁ…(´・ω・`)」とも同時に思います。
どうせなら後世の時代の人も読むことをもっと意識して欲しかったかも...。


『古事記』序文㉓~太安万侶からの注意点(1)「於字即難」~

【原文と読み方】
【原文】
然上古之時。言意並朴。敷文構句。於字即難。
已因訓述者。詞不逮心 全以音連者 事趣更長。
是以今。或一句之中。交用音訓。或一事之内。全以訓錄。

【読み方】
然(しか)れども上古(じょうこ)の時、言と意と並(なら)びて朴(すなお)にて、文を敷き、句を構うること、字に於(お)いては即(すなわ)ち難(がた)し。
已(すで)に訓に因(よ)りて述べれば、詞(ことば)は心に逮(いた)らず。
全く音を以って連(つら)ぬれば、事の趣(おもむき)更に長し。
是(ここ)を以って今或(あ)るは一句の中に、音と訓とを交え用い、或るは一事の内に、全く訓を以って録(しる)す。

【訳】
しかしこの古い時代の言葉は、現在とは意味が異なっていたり、また既に使わなくなった言葉であったりしたので、これを文字化して区切り、文章を書くことはとても難しいことでした。
古い時代の言葉を、現在の訓読みするように書こうとしても、私にはそれを伝える適切な言葉が思い浮かびません。
音読みならば伝えることは可能でしょうけれども、漢文のまま(=訓読みのまま)読めるところまで全て音読みにしてしまいますと、今度は文字数が増えすぎて文章が長くなってしまいます。
そのため、区切りの中に音読みと訓読みを両方用いた文もありますし、また場合によっては訓読みだけを用いた文もあります。



【解説】
然上古之時 言意並朴
「上古」は以前も出てきました。
「じょうこ」と読み、「大昔」の意味です。
「朴」は「すなお」と読みます。
「素直、素朴」という意味です。

直訳してみますと「然れども大昔の時は、言葉も意味も並べて素朴でした」
ここでいう「並べて」は「(言葉も意味も)並べて見て見ると共に~」という感じだと思います。
また「素朴でした」とは「現在とは違う古い言葉が使われていた」という意味でしょう。

なのでここは「しかし大昔は、言葉も意味も現在とは違う古い言葉が使われていたので」→「しかしこの古い時代の言葉は、現在とは意味が異なっていたり、また既に使わなくなった言葉であったりしたので」と訳しました。

敷文構句 於字即難。
「敷文」は「文を敷く」だけだと難しく感じますが、主語を入れると分かりやすいです。
主語は「上古の言葉」ですから「言葉で文を敷く」、つまり「文章を書く」ことです。
「構句」も考え方は一緒です。
「上古の言葉で句を構える」、つまり「句(言葉の区切り)の組み立て」ことです。
主語を入れれば結構簡単ですよね♪
...まぁ主語を省かれてるから、訳するのに苦労するわけですが…。
要するに「敷文構句」は「文章を書いたり、区切ったりすること」となります。

「於字即難」は「字に於(お)いては即(すなわ)ち難し」と読みました。
ここは「文字にすることは難しい」で良いと思います。

文章にすることの困難さを編纂後に語っているので過去形にして「これを文字化して区切り、文章を書くことはとても難しいことでした」と訳しました。

ここで言う「文字」とは「漢字の文字」なんですが、何で難しいのか?が、この後語られます。
読めば「あ~なるほどね」となるんですが、その前に【音読みと訓読みの違い】【漢文訓読と借字】の2点について簡単に説明しておきたいと思います。
これを頭の片隅に入れながら、この後を読み進めると、太安万侶が(あと私たちが)何に苦労したのかがちょっと分かりやすくなると思います。

【音読みと訓読みの違い】について

音読み→昔の中国の発音を元にした読み方、聞いただけでは意味が分からない事が多い。
訓読み→漢字の意味を表す日本語の読み方、聞いただけでも意味がわかる事が多い。

古事記』は原典が漢字で書かれています。
そして1300年前の言葉・意味で書かれていますので、これを現代の私達が読むのは、とても難しいことです。
似たような事が太安万侶が編纂する時にもあって、中国語(音読み)日本語(訓読み)マジ難しい!と愚痴っているわけです。

想像してみて下さい...例えばマックで二人の美女が会話しています。しかし音読みだと伝わるでしょうか?

「ガコウウショウ」(音読みです)

いや、わかるかッ!

ってなりますよね?しかし、訓読みなら...

「われこのいもちい」(訓読みです)

あっ!分かっ...いや、やっぱりわかるかッ!!

...あれ?おかしいな、もう一度訓読みで...

「我好芋小(われこのいもちい)」

えっと…『私、ポテトのSサイズが好き』…?知るかッ!

ねっ?訓読みなら伝わったでしょう?え?そうでもない?
太安万侶もこんな感じで苦労した、と以下に書いています。
以上【音読みと訓読みの違い】についてでした<(_ _)>

【漢文訓読と借字】について

次に【漢文訓読と借字】について考えてみたいと思います。

漢字が伝わる前、日本語には固有の文字がありませんでした。
つまり漢字を素に日本で生まれた【仮名】(ここでは平仮名・片仮名の意味です)も無かった、という事になります。
やがて漢字・漢文が伝わりました…しかし漢文は中国語の為の文、当然音も構文も異なる日本語にはそのまま使用できません。

そこで日本語として理解するために生み出されたのが漢文訓読でした。
これは少し難しいのですが一言で言いますと【文法は漢文のままだけど、訓点を付けて日本語の文体に置き換えた読解方法】です。
しかし、「置き換え」出来ないものもありました。それは固有名詞です。

例えば...私の名前(もちろん本名ではないが)「いもみ」漢字で「芋美」の場合。
芋は訓読みで「いも」ですが、美は訓読みでは「うつく」になってしまい、「芋美」なのに「いもうつく」になってしまいます。

なので、これを解消するために漢字の発音だけを用いて、日本語の音に当てる「借字(しゃくじ)」が出来ました。
いわゆる万葉仮名です。
『古事記』にもこの万葉仮名はよく用いられています。

想像してみて下さい...例えばマックで二人の美女が【漢文訓読と借字】について会話しています。
(※ご注意ください、全く参考になりません<(_ _)>)

我好面包挟牛肉起司(※実際こんな文はありません

はぁぁぁ?!
えっと…訓点を付けると我好、面包挟牛肉起司かな...?
面包がパン、牛肉と起司(チーズ)を挟むだから...!
分かった!マックシェイクだ!!

正かっ...はぁぁぁ?!
ハンバーガーでしょぉぉぉ!

ハンバーガーを漢字が本来持つ意味を無視して日本語の音にあてる「借字」すると…?

反婆餓亞。

かなり無理がある解説になったわね…。

え~…以上です<(_ _)>💦


已因訓述者 詞不逮心
「已」は読みも意味も「すでに」です。
「因」は「(よ)る」です。
「(元の状態に)に従う」という感じの意味でしょう。
「述者」は太安万侶自身を指しています。
「詞」は読みも意味も「ことば」です。
「逮」は以前も説明しましたが「およ(ぶ)」です。

直訳すると「已(すで)にある訓で(私太安万侶が)読むことに従えば、言葉が心に及ばない」でしょうか。
「言葉が心に及ばない」というのは、太安万侶が古代の日本の言葉を漢文の形では表せなかった、表すにふさわしい言葉が見つから無かった...と言っているように解釈しています。
前文で「古い時代の言葉は、現在とは意味が異なるか、既に使わなくなってる」と言っていますので、ここは「古い時代の言葉を、現在の訓読みするように書いこうとしても、私にはそれを伝える適切な言葉が思い浮かびません」と訳しました。


全以音連者 事趣更長。
「全以音連者 事趣更長」は上の「已因訓述者 詞不逮心」の対比と考えれば訳しやすいです。

直訳してみると「(私太安万侶が)全てを音読みで以て連(つら)ねれば、事の趣(おもむき)が更に長い」でしょうか。
「全て音読みにしてしまうと、文が長くなってしまう」と言っているのですが、何で長くなってしまうのか??

これは要するに、「漢字の音を使えば表現できるんだけど、音読みを使わないでも読める部分までも全てを音読みにしてしまうと、文字数が増えすぎてしまう」と言っているのでしょう。

なので「音読みならば伝えることは可能でしょうけれども、漢文のまま(=訓読みのまま)読めるところまで全て音読みにしてしまいますと、今度は文字数が増えすぎて文章が長くなってしまいます」と訳しました。


是以今 或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓錄。
ここを訳すにはこの前文がヒントです。
前文では①「全てを訓読みでは書けない」②「かといって全てを音読みにしたら長文になってしまう」です。
ここではこの①②に対し、出した結論が語られています。
難しい言葉は無いので、このまま直訳すると…
「是(ここ)を以(も)って今、或(ある)いは一句の中に音読みと訓読みの文字を交えて用い、或いは一事の内に全て訓読みで以って記録しました」でしょうか。
ここは「そのため、区切りの中に音読みと訓読みを両方用いた文もありますし、また場合によっては訓読みだけを用いた文もあります。」と訳しました。



以上で『古事記』序文㉓~太安万侶からの注意点(1)「於字即難」~のご紹介はおしまいです。

次回は『古事記』序文㉔~太安万侶からの注意点(2)「辭理叵見」~をご紹介する予定です。

ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
本日のおまけは一番下にあります。

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