こんばんは、いもみ🍠です。
本日は、『『古事記』序文⑨~虎步於東國~』のご紹介です。
こんばんは、アキです。
主に翻訳と解説を担当しています。
前回で天武天皇(この時点では大海人皇子ですが)は『自分が天皇になるべき身であることを自覚』したことが語られました。
この後、話はいよいよ壬申の乱に至るのですが、今回は挙兵までの話が述べられています。
『古事記』序文⑨~虎步於東國~
然 天時未臻。蟬蛻於南山。人事共給。虎步於東國。
【読み方】
然れども、天の時いまだ臻(いたら)ざりし、南の山に蝉のごとく蛻(もぬけ)、人と事と共に給(た)りて、東の國に虎のごとく歩みたまひき。
やがて、不破道(ふわのみち)以東を抑えた天武天皇のもとに軍勢が揃い、虎が翼を得たごとく進軍を開始しました。
「然」は「しかし」です。
「臻」は難しい字ですが、訓読みで「いた(る)、おお(い)」。
意味はそのまま「至る」です。
ですから「未臻」で「まだ至っていない」となります。
直訳すると「しかしまだ天の時に至っていないので」となります。
ここでの「天の時」とは何か?
これを知るには、天武天皇の即位迄の時代背景について知っておくと分かりやすいので、簡単にまとめてみました。
【天武天皇の即位まで】
天武天皇が誕生するまでの当時の社会情勢はまさしく激動の時代でした。
国内では645年、中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)が起き、国外では百済滅亡・救援に伴って起きた663年の白村江の戦いに敗戦していました。
政情の不安定化に対し、中央集権体制を進めたため豪族からの反発は強まり、さらに唐の侵攻に備えた人的・経済的負担は莫大であったため国内では不満がくすぶっていたのです。
こういう背景の中、672年、皇室内において天智天皇の後継者争いが原因で壬申の乱が勃発しました。
天智天皇が崩御すると、皇位継承をめぐって天皇の嫡男・大友皇子と天皇の弟・大海人皇子が対立し、古代における最大の内乱となったのです。
天智天皇が嫡男・大友皇子を太政大臣に就任させたことで、大海人皇子は兄の天智天皇からの皇位継承の打診を辞退し、出家するとして吉野に入り、隠棲しました。
吉野で隠棲した大海人皇子は、不満を持つ豪族らと通じて戦の準備を進めていました。
そして、吉野を出た大海人皇子は、わずかな従者と共に私領のあった美濃へ向かい挙兵。
最後は瀬田橋の戦いで、大友皇子の近江朝廷側を打ち破り、大友皇子は自害しました。
…こうして天武天皇の即位へと至るのですが、上の文はまだ「挙兵の時ではなかった」ことを指して「天の時」と言っている様です。
そこで「しかしながら、まだ機が熟していなかったので」と訳してみました。
・蟬蛻於南山。
「蟬蛻」は「セミの抜け殻」です。
「南山」は「南の山=吉野山」を指します。
直訳だと「吉野山でセミの抜け殻」。
何言ってんの?と思われるでしょうが、これは上記の「天智天皇からの皇位継承の打診を辞退し、出家するとして吉野に入り、隠棲した」部分の事を言っているのだと思います。
つまり「天智天皇からの皇位継承の打診を辞退して出家し吉野で隠棲した」と訳しました。
・人事共給。虎步於東國。
「給」は「足りないものを足す」といった意味です。
「人事共給」とは要するに、「人事=軍勢が」「足りた=揃った」という意味でしょう。
※ちなみに6月24日に「軍勢が膨れ上がった」との記載があります。
「虎」は「軍勢を得て、虎に翼が生えた様子」を表していると読みました。
「歩」は「軍勢が歩く=進軍した」と読みました。
「東國」について補足しますと、壬申の乱はザックリ言いますと、美濃(岐阜県)を境にした東軍と西軍の争いです。
もっと厳密にいうと美濃・不破道(ふわのみち)を境にした東西でしょうか。
不破道は、当時東西の出入口となっており、ここを押さえたことで、大海人皇子が優位となった、と考えられています。
つまり「東國」と言うと関東・東北も含みそうですが、ここでは「不破道以東」というニュアンスで考えています。
そんな訳で「やがて、不破道(ふわのみち)以東を抑えた天武天皇のもとに軍勢が揃い、虎が翼を得たごとく進軍を開始した」と訳してみました。
以上で『古事記』序文⑨~虎步於東國~のご紹介はおしまいです。
次回は『古事記』序文⑩~壬申の乱~をご紹介する予定です。
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ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
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