いもみの日記

御朱印集めが趣味のOL(お芋好き女子)です。いろんな神社やグルメを紹介します!

優しさにホッコリ!頼政神社に行ってきました!!

こんばんは、いもみ🍠です。


健康のためにと「青汁」を購入して飲みました!
CMで安田成美さんが飲んでいるところを見て、美味しそう飲んでるけどどうなのかな?と疑心暗鬼でしたが、飲んでみたらさっぱりしてて美味しい✨
クセもなくて、緑茶と抹茶を足して2で割ったような味ですね(∩´∀`)∩
健康と美容にも良いらしいので✨✨
飲み続けてみようかなと思いました。


さて本日は「鎌倉殿の13人」にも(ちょい役で)登場しました!源頼政を祀る茨城県古河市にある『頼政神社』のご紹介をしたいと思います!

地図はこちらです↓

長谷寺から車で5分ほどの場所にありました。
場所はすぐわかりましたが、入る道はちょっと分かりずらいです。
9号線を進むと「頼政神社」の看板(石碑?)がありますが、これが小さいので見つけづらいです。
よく注意しないと見落として通り過ぎてしまうかも...というか私たちは気付かずに通り過ぎてしまい、もう一周回ってしまいました(´ω`*)テヘヘ
また頼政神社に至るまでの道路は狭いのです💦対向車が来たらどうしましょう?という感じです😨
気を付けて運転しました。訂正→アキちゃんに運転させました。


専用駐車場が無かったので、古河公園の隅に停めさせていただきました。
後で神社の方に聞いたら「この公園に駐車しても大丈夫」
とのことでした(*‘∀‘)


今回は頼政神社のご紹介をするのですが、その前に源頼政はどういう人物だったのでしょうか?
と言う訳でアキちゃんに、源頼政について簡単にまとめてもらいましたのでご覧ください<(_ _)>

源頼政(1104~1180)について

⇒清和源氏の嫡流で、現在の大阪を基盤とした摂津源氏です。
皇位継承問題やその後の政変である保元の乱(1156)・平治の乱(1160)で勝利者側に属し、源氏の長老として平清盛の政権下で武士でありながら公卿従三位以上の官位を公卿と言います)に列しました。
既に平清盛が武士として初めて公卿になっていましたが、従三位は清和源氏としては初めてで、この位から頼政は「源三位(げんざんみ)」との呼び名もあります('ω')ノ


後述しますが、歌人としても優れていただけでなく、武人としても『鵺退治』で有名で文武兼ね備えた人物であったようです。
源氏でありながら平清盛に信用されていた頼政ですが、後年平氏打倒の兵を挙げます。
挙兵に至った動機は①「頼政の嫡男の仲綱が、清盛の三男の平宗盛から侮辱を受け、このまま黙っていては武士の意地が立たないため」とか②「治承三年の政変を機に、鳥羽天皇直系から安徳天皇の系統に変えた平氏への反発」辺りが有力な説になっています。
挙兵の真相は分かりませんが、平清盛による軍事クーデターである治承三年の政変では以仁王(後白河第三皇子)も所領を没収されており、この政変が2人の挙兵のきっかけになったのは間違いないでしょう('ω')ノ


1180年4月に頼政・以仁王は平家打倒の令旨(皇太子の命令書)を出し、挙兵を企画するのですが翌月には早速バレてしまいます。
頼政は以仁王を逃がそうと宇治平等院に籠って戦いますが、力尽き自害しました(以仁王もこの後戦死しています)。
辞世の句は 埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける
「花咲く事もなかりしに」と歌った頼政でしたが、歌人としても武人としても名を残し、更にこの挙兵をきっかけに源氏が立ち上がって平氏を倒した...という歴史を見るなら、頼政は十分花を咲かせた、と思うのですが…いかがでしょうか?('ω')ノ


歌の話が出たので、頼政の歌人としてのエピソードをご紹介したいと思います。

~歌人としての頼政~

⇒出世に関して貪欲なエピソードが残っています。


人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな
「大内山の山守」は、頼政自身のことを指しているようです。
またここで言う「月」とは天皇のことです。
だからこの歌は「殿上人じゃない私は木の隙間から天皇を見るしかないんだよね~…」という愚痴にも似た昇進させろアピールに近いです。
この結果、頼政は1158年内昇殿(殿上人)を許されています( ゚Д゚)ウマクヤリヤガッタ!


もう一つも歌でアピールします。
のぼるべきたよりなき身は木の下に椎をひろひて世をわたるかな
この時の頼政の官位は正四位下。
上でも書きましたが、従三位以上の官位を公卿と言います。
「椎(しい)」を自らの身分の「四位」にかけているわけです。
つまりこの歌は「昇進がない私は、木の下に落ちてる椎の実でも拾いながら(四位のまま)余生を過ごすしかないよね~…」という愚痴にも似た昇進させろアピールで、頼政がこっちをチラ見しているのが目に浮かびます…(´-ω-`)ヤレヤレ
この結果清盛は、「頼政はまだ四位であったか、忘れてた」と思い出し、頼政を従三位にしたといいます('ω')ノ


歌で相手に伝えようとするのが当時のやり方なのでしょうか?
確かに直接「昇進させて」と言うよりは、いやらしくないかもしれませんが…頼政の歌は結構露骨じゃないですかね??


次に頼政の武人としてのエピソードの紹介です。
有名なのは『鵺退治』のお話です。

~武人としての頼政・『鵺退治』のお話~

⇒鵺(ぬえ)とは頭が猿、体が狸、手足が虎、尾が蛇の怪物です。
平家物語』によると、「近衛天皇が毎晩何かに怯え、容態が悪くなった。『昔源義家が御所で弓を鳴らしたら病魔が退散した』という故事に習い、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった頼政が御所の庭を警護することになった。ある日の深夜『鵺』と呼ばれる化け物が現れ、頼政は弓で化け物を射って仕留めた」そうです。
近衛天皇は喜び、頼政に『獅子王』という刀を下賜したそうです。
ちなみにこの『獅子王』は現在、東京国立博物館にあるそうです('ω')ノ


ここまで頼政のエピソードをご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
源氏と言えば、源頼朝・義経、武田信玄や徳川家康の名が浮かぶかもしれませんが、この源頼政もとても興味深い人物じゃないのかな...と思います。
以上、アキでした<(_ _)>

~創建~

⇒神社としての創建については、「1677年古河城主の土井利益が城内鎮護の神とした」説と、「1696年古河城主の松平信輝が神社として整備した」説の2つがあります。


「源頼政が平等院鳳凰堂で自害した後、頼政の従者が頼政の首を持ち帰って塚をもうけて祀った」という伝承が残っているのですが、この従者が誰だったのか、塚を設けた場所はどこなのかについては明確では無いようです。
頼政の首を葬ったとする伝承は、茨城県龍ケ崎市の頼政神社にもあるため、場所についてハッキリとはしていません。
従者については頼政の郎党であり、古河を拠点としていた下河辺氏の誰かではないかと思うのですが…いつか分かる日が来るのかもしれませんね!(*‘∀‘)


なお古河城内にあった頼政神社は、大正期に渡良瀬川の河川改修工事により現在の位置に移されたそうです。
元の社殿のあった場所は、今は河川敷になっているそうです。

~御祭神~

源三位頼政を祀っています。


では境内のご紹介です(=゚ω゚)ノ
こちらの階段を上がります。


説明の看板がありました。

階段を上がり終えると、鳥居がありました。木々が生い茂っていました。

掲示板には古河城の地図のようなものが貼られていました。
写真の左下に『御朱印は掲示板の裏の家 鏡川』とあるのが分るでしょうか?
参拝後に頂きに訪れることにしました。

歴史を感じさせる灯篭ですね。

狛犬です。右の狛犬のお口が可愛いですね。

社殿です。
御朱印を頂くときに聞いたんですが、「昔は沼地だったためここまで来るのに、下駄を擦り減らす思いで参拝しに来ていたんだよ」と教えてくださいました。


帰り道です。アドベンチャーのようでした。

御朱印を頂きにお宅へ訪問させていただきました(*- -)(*_ _)ペコリ


一見社務所に見えないので、「ここかな...?」と心配でしたが、強心臓の持ち主のアキちゃんが躊躇うことなく呼び鈴を押しました!こういう時だけは頼れる相棒です!!
応対してくれた宮司さん(?)は気さくな方で、とても話しやすい方でした!(´ー`)
最後に「折角来てくれたのに何もしてあげられなくてごめんなさいね」と言われ、「これあげる!」と庭に咲いているスイセンを頂きました。
「香りが良くてスイセン大好きなのよ!」と宮司さん(?)に言われ、嗅いでみたらとてもいい香りでした✨
宮司さん(?)どうもありがとうございました!<(_ _)>

頂いた御朱印がこちらです↓


ここまで読んで頂きありがとうございました_(..)_
本日のおまけは一番下にあります。

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本日のオマケ
頂いたスイセンの成長記録📝
日に日に花が開花していく様を見ていくうちに、嬉しい気持ちになりました🏵️

お家に飾ってあるスイセンを毎日嗅ぐのが日課になりました( ´∀` )